2023-03-17社長ブログ

20代に贈る私の創業物語

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こんにちは🙋‍♀️

私もいよいよプロフェッショナルとしてみられる中堅ゾーンに入ってきたので、 まだまだ誰よりも貪欲に学びつつ、可愛がっていただくだけじゃなく、 会社規模で社会に貢献し、世界を変える挑戦をしたいと思い、 少しずつ後世のため、次世代のために役立つことをして力になれることをやっていきたいと思いました。

そんな第一歩に、少しでも今モヤモヤを抱えている、未来明るい若手の皆さんにとって 私の20代が、背中を押せるものになれたら嬉しくて、書きます。

20代の入口は、私の創業物語

大学4年生、11月。 21歳の私は、ほとんど勢いだけで起業家人生を始めることになりました。

訳あって進路が無くなり、退路が断たれて、起業をしたようなものです。

それまでは、最強なほどに学生生活を謳歌していたので、 就職より起業だ!と、華々しい内定先を持つ友人達に、強がって自分の選択肢を正当化していました。

丸の内の綺麗なオフィスビルを諦め、 古びたビルのシェアオフィスで会社を作り、 名刺を渡すだけで誉められるキャリアを捨てて、 名刺を渡せば警戒心を抱かせてしまう名も無き会社を作った。

それが、私の20代、社会人のスタート地点でした。

今思えば、二十歳そこそこの子が、手ぶらでライオンやらピラニアがうじゃうじゃいるサバンナに放り込まれるようでした。

そして、当時は学生起業家全盛期で、活躍する一流大学の学生や、天才エンジニアの学生起業家たちが華やかなリリースを出し続け、期待の星だとメディアに取り上げられていました。

その側で、私は、早々に駆逐されていったのです。

ベンチャーという名の偽ブランドを被った零細企業

創業してからすぐ、スキルも、キャリアも人脈もお金もなかった私は、 自分の帰国子女のバックグラウンドで仕事を取れないかと思い、 ひたすら学生時代に獲得した大人たちの名刺を広げ、片っ端からメールを打ちました。

「覚えてますか?以前学生団体でお世話になった山本と申します。 今大学4年生ですが起業をしました。中国語、ベトナム語、インドネシア語、英語、あらゆる言葉の翻訳ができます。」

ほとんど返事が返ってこない中でも面白がって、 「この翻訳を頼める?」と、仕事をいただくことができました。

初めてのお仕事でご挨拶に伺うと、他のクライアントを紹介してくださるようになり、 初めて代金が振り込まれた日には、記帳しに行き、 そこに記載された数字を見て、たまらなく嬉しかった感情は、今でも鮮明に覚えています。

挨拶を続けていると少しずつ、翻訳の仕事から派生して 「こんなこと手伝ってくれない?」と違う仕事も紹介してもらえるようになりました。

紹介の連鎖が起きて、なんとかやっていけるかも知れないと思ったのです。

社会人になると、高校や大学の同級生で「報告会」と言う名目で集まる時間が何度かあります。 その時私は、 「ベンチャーって楽しいよ!どんどん伸びてる!」 とひたすらに言いながら、少し虚しさを感じていました。

それは、薄々自分のやっていることが「ベンチャー」ではない、とわかっていたからです。

仕事がもらえるかわからない状態で、ただ自転車操業のように挨拶に行き続ける日々。 想像していた、プロダクトを作って、仲間で議論をして、世の中にないものを作る、というワンピースの海賊団のようなイメージとは、程遠かったのです。

始めた、広告代理事業

それでも生きていくしかなかったので、とにかく営業活動を続けていました。

すると、企業から「学生にマーケティングしたいんだけど、なんか教えてよ」と言う相談を受けることがあったのです。

ひらめきのままに、「これぐらいフォロワーがいる人につぶやいてもらいましょう」と、提案をし、 知り合いの「フォロワーが多い人(今となってはインフルエンサーと呼びます)」に声をかけて、 幾らかを支払って投稿をしてもらっていました。

当時はインフルエンサーマーケティングというものが流行しておらず、 安く有名人に商品を広めてもらえる、ということがクライアントにとっては斬新でした。

それが小さな噂になり、広告代理事業を何件か受けることになり、 規模の大きな仕事を受けることになりました。

少しずつ、扱う金額が大きくなっていき仕事の規模が大きくなっていきました。

一瞬の喜びは、綻び。

それでも、虚しさは増す一方でした。

当時やっていた広告代理事業で、誰かの役に立っている手触り感を感じなかったのです。 また、広告業界には怖ささえ感じる重鎮が多く、勝ち抜いていける自信もなかったです。 結局挨拶回りで偶然に入る仕事に頼るしかなく、スケールする気配も感じませんでした。

仲間と、将来こうしたいね、とワクワクを共有するわけでもなく、 これでトップを取っていくんだ!というプロダクトがあったわけでもなく、ただ「案件を回す」状態でした。

これはベンチャーじゃない

と思いました。

どれほど目の前の売上げが上がっても、 安心して毎日食べていける気もしなかったです。 何かに向かってがむしゃらに走っている感じもせず、 喜びは一瞬にして綻びました。

意を決して始めた、リアルベンチャー

こんなことのために、起業したわけじゃない、と思い、

私たちは大きく方針転換をし、キャッシュメーカーだった広告代理事業を止める決断をしました。

そこで、プロダクトを作るべく、 コロプラの学生起業家ファンドより、資金調達をしました。

IMG 2009 (投資を受けた当時いただいた、当社の守り神)

コロプラは、ビジネスを知らない私に、時間を作って事業計画の作り方を1から教えてくれました。 うまくいかない時は励ましてくれて、右も左も分からないただの学生起業の私を信じてくれました。

ベンチャーと言えばまずは、仲間

そう思っていたので、

出資を受けた資金で、とりあえず採用をしました。 当時は、人がいれば売り上げが伸びると思っていました。

さらにベンチャーと言えば、プロダクトが必要だと思い、

インターネットビジネスをあまりよく知らなかった私は とりあえずメディアを作ろうと、弁護士事務所にアルバイトに行けるサイト「ヒュープロアシスタント」を外注して作りました。

ほとんどの出資金を使って、 一瞬にして1人から、15人くらいになりました。

ベンチャーになったのに、急に儲からない

ガラガラだったシェアオフィスのテーブルは、ガヤガヤし始め、 SNSでひたすら社員が増えたと呟き続け(実際はインターン生) 新規事業を立ち上げましたと言い続け(実際はワードプレスのブログ)ました。

実態のない事業に対して、うまくいってそうなベンチャー企業を演出していました。

しかし、収益は立ちません。

すると、演出にもボロが出て、 気づけば一瞬にしてオフィスで私はまた一人になりました。

私は、仲間を集めてウェブサイトを立ち上げれば、 伸びる会社になり、ベンチャーになると勘違いしていた のです。

同窓会に行くと、程よく金融の友人たちは昇進をしていました。 商社で海外勤務が決まった友人もいました。

仕事にも慣れてきた頃の20代中盤の人たちは、楽しそうに仕事の話をしているのです。 20代中盤の私は、会社の箱がある無職のような状態です。

現実はあまりにも惨めで、それでも大袈裟に語らないといけない自分が許せず、 次第に、人に会うのをやめました。

うまくいく気配も、1ミリも感じませんでした。 それでもただ粘って事業を見つけようと、必死に息をしていました。

ろくな事業もなく売上も立っていない私に、 コロプラの当時の担当者は何度も会いにきてくれました。

一緒に事業を見つけよう!と言ってくれました。

やることがないので、とりあえずヒュープロアシスタントの営業を細々と続けていました。 弁護士事務所に何度も足を運び、私をかわいそうに思ったのか、お客さんが、 「人に困ってるらしいよ」と、会計事務所を紹介してくれたのです。

そこから、会計事務所に何度も出入りするようになり、 お客さんの悩みをずっと聞き続けてひらめくように生まれたのが、 今のサービス ヒュープロです。

ベンチャーとは、一夜にして伸びる。はずだった。

新メンバーを口説いて、4人で新たなスタートを切れる状態になりました。

シェアオフィスを抜け出して、

mosaic 20230317093429 (シェアオフィスから)

初めて自分達のオフィスを構えました。

IMG 1157 (初めて自社オフィスを構えました)

5階建ての階段しかない古びたビルでした。 お金がなかったので、2500円の椅子を買って、友人に頼んで組み立ててもらいました。 とりあえずパーテーションを立てて会議スペースを作り、 音はもちろん、全て外に聞こえます。

それでも初めて自分で支払うオフィス賃料、ちゃんと社員と言える仲間達がいて嬉しかったです。 元気に学生達が出入りをして、ボロオフィスは良い感じに何か生まれそうなベンチャーを演出してくれます。

門出感はありましたが、それでも、会社はうまくいきません。

せっかく立ち上げた新サービスも、資金調達したプレシリーズAも、採用した新しい仲間も、

ハードシングスの連鎖で、 一瞬にして無くなっていきました。

残されたのは、無駄に広いオフィスと、 IMG 4100 (ぎりぎり12人入るボロオフィスから、45人入るオフィスに移転しました。それなのに社員数は半減しました。)

キャッシュアウトしかけた口座と、数少ない私たちだけでした。

嵐は去る

20代後半に差し掛かろうとしても、無残な状態だったので、 相変わらず同窓会には顔を出すことはできませんでした。

そんな状態でも、諦めようという発想は少しも思い浮かびませんでした。

残されたメンバーと、私たちの会社再建プロジェクトが始まりました。

嵐が去った後の、カラッとした感覚で、何もないからこそ、なんでもできました。

そこからたった1年で会社はV次回復を遂げ、 念願の藤田社長から出資を受けることができ、 今の成長率著しい、私たちになることができました。 image

20代の青春はほとんどが辛かった。

何度も、人が去り、何度も、事業が潰れて、夢は否定され、反論もできず、やるせなかった。 それが、私の20代のほとんどです。 もしあの時就職してたら私どうなってたんだろう、と、何度思ったかわかりません。 イケイケだった学生時代と違って、プライドという言葉を忘れてしまうほど、自信を全て失い、真っ白な状態になりました。

でも、その分、まだ20代の割には一般よりは多い

ミラクルを何度も見ることができた。

オフィスは1個だったロビーが、2個になりました。

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集合写真を撮るたびに、写真に収まらなくなっていきました。 DSC 0243 (2021年の新年)

IMG 3134 (2023年の新年)

終わり良ければすべて良し。

散々だった20代も、20代最高だった、と言えるフィナーレを迎えて、この先どこに向かうのか、もっとワクワクしています。 20代で蓄えた体力も筋力も、技術も全て使いこなして、 もっと多くの武器を身につけたら、もっと遠くに行ける。 そう思うと、見えない未来が楽しくて、必ず最高の30代にしてやる!と気合が入ります。

そんな私から伝えたい、

20代を後悔せずに生きる方法

それは、

迷ったら、リスクを取ること

20代は、義務教育から解放され、親の経済圏から離れます。 あらゆることを、自分で決めていかなければなりません。

義務教育を受けているうちは、決められた毎日がありました。 その当然に来る毎日の中で、偶然出会う人や情熱を注げる部活に出会います。

しかし、そこから解き放たれると、あれほど熱狂していたものに、どうやったらまた出会えるのか分からなくなります。

気づけば、やってみよう、と思うより、やらないでおこうという選択をするようになります。

やりたいことがないから前向きに取り組めるものがないのです。 とりあえず失敗しないように、大多数の歩む正当な道を、歩もうとするようになってしまいます。

やりたいことが見つかってない中でも、日々生きていると、何度も選択するシーンが訪れます。

目の前にいつでも二つの扉が現れます。 左には、安全と書いてあり、右には何も書いてありません。

やりたいことがない時は、右を選ぶことです。

右には何が起きるかわからないです。 誰もいかない道にはリスクが高いです。 でも誰もが選ぶ道の正解は見えていて。逆に言えばそこに財宝が無いことも見えます。 右側の扉には、財宝はあるかもしれないし、無いかもしれない。

でも、右側の扉を選ぶとき、きっと財宝があるかもしれないと希望を持つはずです。 その時、心にかすかなワクワクが生まれるのです。ドキドキします。

私は、こうやって人生を楽しくしていくんだと思うんです。

だから、希望を持つこと。

例え、その先に猛獣だらけのジャングルがあったとしても、その扉に入ってしまえば、生き抜くしかないのです。

そのジャングルで生き抜く術が身につき、 今まで出会ったことがない動物達に出会うことができます。 そのジャングルで生き抜く出会ったことがない人たちに会うことができます。

彼らはとんでもない物語を持っているのです。

リスクを取った先に、最高な人たちに出会う

そんな最高の人たちに出会うことができます。  私は20代で新たに出会った最高の3種類の人たちがいます。

①会社の仲間

②株主

③経営者の先輩方

この方々は、私が起業する人生を歩んでいなかったら、出会っていなかったかもしれません。

あらゆる場面で、支えてくれて、励ましてくれました。世界を教えてくれました。 おかげで今の私があります。

私にとって、起業というリスクある方を選んだ先にあった財宝は、 この最高の方々との出会いでした。

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物語のフィナーレは、自分が決める

そして、進む扉を選んだら、やり抜くだけ。

物語のエンディングは、自分がどこで終えるか、を決めることができます。 途中で諦めれば、ダメだった瞬間で終わります。

でも続ければ、自分が満足した瞬間をエンディングにすることができます。 私は、20代のフィナーレを、最高の仲間と、希望に溢れた未来で、 年間何百%も成長している楽しい起業家として迎えることができました。

これを、幾度もシーンで心が折れていたら、 私の20代フィナーレはきっと、諦め癖と、選んだ道に責任を取れない、脇役で終わっていたかもしれません。

私たちの人生は、私たちが主役で、それをどんなエンドロールにするのか、自分が決めるのです。

私にとって新たな入口

丸の内で綺麗なスーツは着ていないけど、 毎日雑多な渋谷でパーカーを着て自らの手でプロダクトを作っている。

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まだまだ知名度は低い会社だけど、 社名を一回で読まれたことがなかった時代から、名刺を渡せば「今伸びている噂の!」なんて言ってもらえるようになるまでのプロセスを全部見てきました。

今、そんな30代の入口を迎えています。

大多数が「正当」と言える道は選ばなかったけど、 私の未来は、大多数に「選びたかった」と言ってもらえる道になると確信をしています。

私のやりたいことは、日本を世界一の国にすること。 30年で失われたなら、後30年あれば取り戻せる。

30代は、20代で身につけた技術と、体力と、仲間でそこに本気で挑んでいきたいと思います。 社会を変える挑戦で、世界を変えます。

そのためには、次の最前線となる、 今の20代(さらには10代のみんな!)無しには考えることはできない。

だから、今、20代の皆さんにこのメッセージを送ろうと思いました。

大丈夫、やってみて。

こんな私でも生き延びた。だから、迷っているなら、やって見て欲しい。

大人が言うような暗い社会じゃない。 みんなが(もしかしたら)思うようなつまらない社会じゃない。 明るい未来になるのか、楽しい毎日になるのか、全ては自分次第。

やりたいことがない社会でもいい。 まずは一歩だけ、リスクを取って、一歩だけ踏み出してみて。 景色は、大きく変わるから。

何よりも、私は、本気で生きた20代、最高だったと思っている。

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今日もヒュープロは、青春を生きる元気な仲間を募集しています!!

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この記事を書いた人
山本 玲奈
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